2007年度 基本方針
理事長 早山 康弘
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE.
愛と信頼に溢れる誇り高き「新潟」の創造に向かって
1.基本方針
明るい豊かな社会それは愛と信頼に基づく社会
明るさ、豊かさとは?
戦後ものがない時代、経済が破綻している時代にあっては経済的な発展こそが火急の問題でありJCも世相も経済的再建に取り組んできました。戦後日本の焼け野原からの復興は諸外国のそして我々自身の予想を遥かに超えて進み、経済的な指標では今もって世界有数の「豊かな国」となっています。しかし時間が経つにつれ、経済的な・物質的な豊かさでは「明るい豊かな社会」の実現にはならないことがいろいろな角度からわかりはじめました。対外的な状況を見れば、生命と財産が脅かされている他国との状況、所得格差が開き未だ解決しない南北問題、環境汚染、テロをはじめとする民族紛争や宗教紛争、内政を見れば、新聞を賑わす凄惨な犯罪、急進する所得格差と希望格差、教育の衰退、人と人とのふれあいの喪失、年金や公共事業に絡む分野を代表とする公に仕えるべき役人の腐敗など、経済的な発展だけでは「真の豊かさ」には到達しないのです。
今やらなければならないのはどうしたら経済的に発展するのか?どうしたら都市間競争に勝つか?ではなく真の豊かさとは、明るい豊かな社会とは?何故我々は豊かではないのか?どうすれば豊かな社会が実現するのか?を考え行動することではないでしょうか。そして明るい豊かさとは金銭的なすなわち数値に置き換えられる指標によって表されるものではなく、道徳的・倫理的な社会、地域や国・世界の行く末に対し奉仕する公の心、心の平静や、他者から受ける思いやりや信頼、そして自分自身が与え続けられる愛といった心の豊かさ、精神的な豊かさをバックボーンとして生まれるものではないでしょうか。もちろん経済的な発展を否定するつもりはありません。なぜなら「恒産なくして恒心なし」すなわち安定した一定以上の収入が無ければ心の豊かさといった内面や社会に目を向ける余裕が無くなることも事実です。安定した雇用の創出、富の分配、社会問題の解決のための投資という点で経済活性化は必要です。いかに自分の会社が儲かるのか、地域経済が活性化するのか、どうしたら日本経済が良くなるのか、これらを考えることは大切なことですが、これらは明るい豊かな社会を築くための従的課題であり主たる課題ではありません。明るい豊かな社会創出といった目的に対する手段としての経済的発展が、それ自体が目的化してしまったために本来あるべき理想の形態を見失っているのではないでしょうか。心の豊かさといったものや精神的なものは数字で表すことも出来ず、使った時間やお金に対するリターンも予測できずこの問題に立ち向かう人にしばしば徒労を感じさせます。特に競争と効率一辺倒の経済的な成功者が社会的な成功者となる風潮においては、心の豊かさを正面から取り組むことに疑問すら感じるでしょう。
しかし我々はすでに、経済的な豊かさだけでは真の豊かさとは為り得ないことに気づい
ています。明るい豊かな社会にならないのは、それを人々が望んでいないからではなく、ちょっとしたかけ違いではないでしょうか。善意に包まれながらも、なかなか良くならないのが現実ではないでしょうか。今こそ本来あるべき明るい豊かな社会にむけ、我々JCが社会の風潮を打破し、市民の意識を変革し大きな環として運動展開する必要性があるのです。
我々の日本国は戦後、基本的に「自由」よりも「平等」を重んじてきたように思います。その結果戦後の国家の再生にも国民が「自分のこととして」それぞれの役割に応じて手助けをしてきたように思います。しかし平等を重んじたことが国際的な競争力の減退を招いたという風潮の中、「平等」よりも「自由」が重んじられてきているように思います。自由競争は産業の発展を促しながらも雇用や地域との長いスパンでの繋がりの面でも不安を含み、個人の自由を尊重するあまりかつてに比べるべくも無いほど道徳心や規律といったものが失われ、抑圧が解放されストレスが無くなるどころか自由になった結果ストレスや不安感が増しているのではないでしょうか。「自由」「平等」「博愛」、これはフランス革命にあった代表的な三つの精神ですが、この中でも今一番見失われている「博愛」が今最も必要なものなのです。この三つが揃わずにどれか一つだけに特化していては本当の意味で明るい豊かな社会とはならないと考えます。今問題を解決できるのは「愛・信頼」といったものを社会の基本構成にすることによってのみなのです。
社会とは?
我々をとりまく諸問題の解決法は「社会」の成り立ちを見ていくことで紐解かれます。昨今の風潮は個人の権利のみが声高に主張され「基本的人権」という言葉に印象付けられるようにあたかも神聖不可分のような風潮をもっています。しかしホッブズが唱えているように、個人が自分の権利を主張している状態では対立が解消せず、そこで争いを避けるために個人の権利をいったん集合させたものが「社会」なのです。すなわちその成り立ちからも明らかなように個人が自分の権利を止め処もなく主張していては、社会は成り立たないのです。社会とは生存権をも含む個人の権利をいったん集め、暗黙のうちながらも個と公の調和による集合体として機能するものなのです。
我々一人ひとりが本来持っている「主権」。その行使が「個」のために傾きすぎている状態を「公」と調和させること、すなわち公共性の形成が求められています。我々自身も「自分さえ良ければいい、自分の家族さえ良ければいい、自分の住んでいる新潟さえ良ければいい」こんな自分さえ良ければいいという考えでもし活動や提案をしているのであればどこかで必ず歪みが生ずるのです。思い描いてください。世界は貧困と殺戮に溢れているが日本だけが平和を享受する、他のまちは予算もなく基本的な行政サービスも受けられないが新潟だけは経済的に発展する、周りの家庭は職を得るのもままならないのに自分の家だけは安定している、家族は困窮しているのに自分だけは贅沢な暮らしをしている、こんな状況がどれだけ不自然で砂上の楼閣にあるかを納得せざるを得ないでしょう。社会とは外部との関係性を持った存在であり、多かれ少なかれ外部との調和を考えなければならないものなのです。
社会を良くするためには、個と公の調和、そして外部に対する貢献といった概念が必要になるのです。我々は自分自身のことを考えながらもまちのことを、新潟というまちを考
えながらも国や世界といったものを、常に意識しなければならないのです。
個の力 〜使命感を胸に〜
前項でともに考えてきましたが、その明るい豊かな社会を創るのは我々一人ひとりの使命感に裏付けられた行動です。社会的なエリートの喪失。学歴の高い人やいわゆるエリート層というのはどの時代でも存在し、現在でも存在します。しかし社会を動かすエリートとは収入や生まれや学歴によって判断されるものではなく「この国を、郷土を良くするために生きる」という使命感すなわち「公の気概」を持った人が弛まぬ努力をすることで「成る」ものでなければならないでしょう。そしてそれは特に政治や行政に携わる人に求められていたものです。しかし今現在では新聞に取り沙汰されているようにどこかで彼らの歯車が狂い、使命感や道徳心に基づいた公の心ではなく私の心によって動いていると考えざるを得ない場面が目に付きます。また我々国民も、国のことを考える人が政治家や役人なら自分たちは彼らに任せていればいい、そんなお任せ民主主義による無責任・無関心に陥っていたことがこの混迷の社会を生み出した原因ではないでしょうか。
そうであればなおさら我々JAYCEEは好むと好まざるとに関わらず公の気概を持って社会を変革するリーダーとして、市民が自ら考え問題解決に当たるように意識変革に努めなければならないのです。そのためには、我々自身が自己の力を高め使命感、道徳心、英知を養わねばなりません。「英知と勇気と情熱」をもってといいますが、特に英知を身につけることに力を注がなければなりません。英知が無ければその勇気と情熱も間違った方向に傾いたり、誰かに利用されてしまう結果になるからです。我々が得なければならない知識はたくさんあります。自らを確立するためには、日本や新潟の思想・歴史の流れ、健全で懐疑的なリテラシー能力を身に付けるための民主主義や基本的人権といった戦後の基本的概念の是非の考察、グローバルスタンダードと総称されるルールや思想の側面の検証、自らを律するための精神的な修養等、我々が知っておくべき過去の遺産や現代のキーワードに関し研修をすることで、社会の風潮に流されず自分で考える力を得る必要があります。
社会に対する目を開くための一番の活動はJCに入会しJCの事業を通して身に付けるものであると自負できるような活動を行う、そうすればJCへの入会と活動そのものが一番の市民意識変革運動となります。入会期間や研修期間は一時期に限るものだとしても、青年会議所への入会を募り賛同を得る活動自体は一年のうちの一時期のものではなく年間を通して広く行うものではないでしょうか。社会的な影響力を得て活動していくためにも、市民意識変革を効果的に行っていくためにも我々の数は多いほうが良いことは言うまでもありません。我々の活動の理解者の層を広げること、そして最大の理解者層であるシニアメンバーとの協力を得て新入会員拡大のための活動を積極的に行っていきます。
メンバーを増やすと共に市民にとって学び舎の機能を持ち、個の力を高めることで明るい豊かな社会を創りあげる礎となるのです。
公との調和 〜誇りを持てる新潟へ〜
個の力を高め、社会に対し活動をしていく中で、我々の活動地域である新潟市は周知のとおり政令指定都市になる予定です。これを新潟がもっと発展する機会と捉えると同時に日本という国の中でますます責任のある立場となると捉えます。新潟だけが発展すれば良いというわけではなく、周辺の市町村や県等の広域圏の中での果たすべき責任があります。例えば定住人口の増加にしても周辺市町村からの流入で成り立つようなものではなく、周辺へも国へも貢献できるまちにならなければならないのです。よそのまちに勝つ勝ち組ではなくよそのまちにとっても国にとっても、もちろん住んでいる住民にとっても価値のある存在へとなることを目指しましょう。新潟の県民性は決して一人勝ちを望むような歴史の上には成り立っていません。敵に塩を送る利他の心。新潟に入ってからも「越後川」ではなく「信濃川」と他地域の名前を自らのアイデンティティにつけて呼んでいる、そんな県民性を今一度再確認する必要があるのではないでしょうか。
新潟市は14市町村の合併を経て新・新潟市となりましたが合併した市町村がどんな地域か、すなわちどんな歴史や成り立ちを持ちどんなビジョンを掲げていたのかを知るべきではないでしょうか。合併後の「人口80万、農業生産高○○億円」といったところでそれは新しい新潟市の姿ではなく無個性な数値でしかありません。単に自分たちの新潟市の数量が変わったと捉えるのであれば、そして数字が大きいほど良いまちだと考えているのであればその人は東京に移住したほうがいいでしょう。我々が移住を考えないのはこの生まれ育ったまちに愛着を持ち、まちの全てとはいえないかもしれないが何かその人なりに好きなものや誇りとなるものがあるからではないでしょうか。その愛着は当然のことながら旧新潟市民だけが持っている感情ではなくどのまちに住んでいる人もそうだと思います。合併地域の住民が育んできた人や郷土史や風物や産業を理解しともに誇りに思うことが新しい新潟を多様な可能性を持ったまちとする第一歩ではないでしょうか。
新潟が他の地域へ貢献することが出来る「価値ある新潟」になるために、我々に何が出来るか、何を持っているか、何を提供することが出来るのかを考えたときに農業の価値を再発見できるのではないでしょうか。付加価値の高い食材という提供の仕方もあれば、低い食料自給率の解決など可能性は多くあります。これも経済的な数値で測るだけではなく食に関する問題解決という視点を持ってみてはどうでしょうか。新潟は地震・水害をはじめとする災害が多い地域です。振り返ってみるに新潟の豊かな自然を育んできた信濃川は太古の昔から新潟の形成に関わってきました。大昔、湾だった新潟に土砂を運び陸地としたのも信濃川の功績です。それだけの自然の力は時に人間の暮らしに大いなる恵みを与えるとともに大きな災害の原因となっていました。信濃川は氾濫しやすく「横田切れ」に見られるように定期的な氾濫で越後平野に甚大な被害を与えてきました。この問題を解決するために、かねてから陳情をしていた「大河津分水」をはじめとする大小いくつもの分水や小河川を作ることで対応してきました。その結果未だ完全に安心とはいえないまでも相当量の水害を未然に防ぐことができるようになりました。昔であれば洪水となったような降雨量でも安心でき、地域の発展に大きく寄与したのです。また、今では考えられないかもしれませんが、かつて新潟の水田では鳥も跨いで食べない「鳥跨ぎの米」しかとれないとされていました。それは腰までつかる泥田で良質の米も作れず、船を浮かべなければ田植えもできないような有様だったからです。それが先の治山治水のための分水、今で言う公共事業により飛躍的に質も量も高まったのです。
そしてこれらのことは新潟が新潟の力だけで解決したのではなく国による、あるいは他の地域による理解が大きく寄与しているのです。先の中越地震においても多大な援助を受け予想以上のピッチで復興が進みました。このように我々は国や他の地域に大きく助けら
れています。「地域のことは地域で解決する」のが理想だとは思いますが、現実的には何でも地域で解決することは難しく、相互扶助の精神が必要です。むしろ困っている地域のために国が率先して動く仕組みづくりや制度を考えるべきではないでしょうか。世界でも有数の地震地帯であり世界中の約10%活火山を抱えるわが国の、さらに災害の多い地域のリーディングLOMとして、災害に対してどう備えどう動くか、他地域の災害時にどう動くべきかを明確にしていくことも必要ではないでしょうか。
我々の活動や新潟のイベントを市民と協働し、市民のまちづくりに対する関心を高めていくことが重要です。そのことにより自分たちのことだけではなく自分以外への貢献を考えられる、「公共性を持った人とまちの創造」が可能になると考えます。また共通する文化的・都市的バックボーンをもつ他都市・他地域との協働により新潟の都市アイデンティティを再確認することも含め、外部との交流をもつことは有益なことだと考えます。
人口や経済規模が大きいから、政令都市だから誇りに思うのではなく、他者への貢献を考えるまちだからこそ誇りに思えるようになれたら、そして我々が新潟を誇りに思うだけでなく、県内のほかのまちが、国中が新潟の存在を誇りに思えるまちになれたら、素晴らしいと思いませんか。
未来を見据える 〜持続可能な社会を目指して〜
社会との公共性を形成し、さらには未来のことも考えなければなりません。そのなかでも今真っ先に取り組まなければならない問題として環境問題があります。増え続けるCO?、大気汚染、水質汚染、資源の枯渇、様々な環境問題があります。このままでは持続可能な社会を構築できず、何とかしなければならないのは明白です。しかし「何とかしなければならない」と思いながらも「誰かが何とかする」と考えて行動に結びつかないことが環境問題の悪化する原因ではないでしょうか。全ての人々が取り組まなければ改善は出来ないのです。
環境問題は今、京都議定書の取り決めがクローズアップされるとともに、「発展途上国 対 先進国」との対立軸で語られています。しかし環境問題の本質は「現在生きている人々 対 今は存在せずこれから生まれてくる人々」の対立軸なのです。ちょっと想像すればわかるとおり、今は存在せず自らの利害を主張することが出来ない人々が環境問題の一番の犠牲者なのです。他人の利益を侵したら裁判になります。他国の利益を侵したら戦争になります。しかし後世の人々の利益を侵しても彼らはクレームをつけることさえ出来ません。なぜなら彼らはまだ存在すらしないからです。大切なことは我々が利他の心や後世への愛を持ち信頼に足る行動をとるかどうかということではないでしょうか。そして人々に行動を生じさせるのは意思の力なのです。
1992年リオ・デ・ジャネイロの地球環境サミットにおいて当時たった12歳のセヴァン・スズキが伝説的なスピーチを行い世界を変えました。それは人々の意識を変えることが出来たからです。環境に関する意識を変えること。そして我々自身の内に強い意志を持つこと。それが環境問題解決の最大の解決策だと考えます。
また、社会は複雑系といわれるように我々の行動が地球全体に影響し、他の地域の行動が我々の地域にも影響します。例えばどんなに海岸をきれいに空き缶やゴミを取り除いても、捨てることそのものをやめない限り海に入ったゴミは潮流に乗って遠く離れた海岸に
流れ着くのです。目に見える部分だけ整っていればいい、我がまちさえ守れればいいという考えでは成り立たないのです。世界的な繋がりも認識した上で取り組む必要があるのではないでしょうか。環境問題を解決するキーワードは「想像力」ではないでしょうか。今はいない未来の世代のことを想像する、遠く離れた地域のことを想像する「力」を身に付けることが肝要です。
環境問題に関して世界をも視野に置いたマクロの視野で捉えることと、自分の身の回りのこととして現実感を有するミクロの視野を持つことにより、我々自身の意識を変え、市民意識を自然の大切さや環境への取り組みに開かせることは持続可能な社会を創る基盤になると固く信じています。
子供たちへの環境の教育も重要ですが、今教育そのものが問題を持っています。それは教育の責任が学校で主に問われることになったからではないでしょうか。社会、家庭、学校で繰り返し教育するべきことが、しつけを中心に失われています。まわりへの迷惑を顧みない子供たち、それを擁護する親、他人の子を叱れない大人たち、戦後民主主義の曲解された相対的価値観のもと進められる学校運営と教育等様々な問題点があり、未来を託す子供たちを育てる我々側にもたくさんの問題があるのではないでしょうか。子供は国の宝という表現がありますが、光る宝となるかどうかは大人の問題だと思います。学校・家庭・社会がそれぞれ教育に一役買うのでなければなりません。しかし現状は学校・家庭・社会が教育ではなく甘やかすことに一役買っているとさえ思えるような光景を見かけます。子供とは決して人格の確立した一個の人間ではなく、我々が教育し、保護しなければなりません。しかし保護とは自己も体格も確立していない子供たちを劣悪な環境にさらし、未来の芽を摘むことが無いよう、格差の固定化や不平等からの保護であるべきです。また、人格を確立していない段階で大人と同じような個人の権利を認めることが社会にとっても子供たちにとっても有益に働くとは思えません。子供の人権の扱い方、子供の教育の問題に頭を悩ませてきた国がどのように教育のあるべき姿を模索し結果を出しつつあるかを研究することは今後の我が国の教育にとって意味のあることではないでしょうか。
教育の問題はしつけだけではありません。資源も武力行使力も無い我が国が世界でも一定のポジションを確保できるのは、そして戦後焼け野原の中で復興が進んだのは識字率をはじめとする学力の高さ、職人を尊敬する心にも表されているものづくりの技術の高さ、先端の科学技術、チームワーク、そして何よりも学ぶことへの意欲ではないでしょうか。しかし現在ではかつての教育の結果得られたこれらの特質という遺産を消費しながら今日に至っているのではないでしょうか。今こそ誰のための教育なのか、何のための教育なのか国家百年の計として見つめなおす必要があります。
学校教育も国語や算数などの勉強と総合学習をともに高いレベルの成果を上げる必要があります。そして総合学習や課外授業として今の教育で足りていない部分を教えなければなりません。何が正しく、何が正しくないか価値観の多様化と言う名の相対主義によりどう生きなければならないかが不明瞭になってきています。我々は子供たちに「清く、正しく、美しく、生きる」ことを教えていかなければならない責務があると思います。そのために道徳や環境の大切さ・歴史等を教えていくことにより未来の世代への投資としたいと思います。
その結果我々の子孫が持続可能な社会と平和を手にしていることを願いましょう。
情報 〜外部情報の理解とJC運動の発信〜
我々の地域の未来は、国境を超えた国際的な情勢にも大きく左右されます。昨今のアジア情勢は緊迫しています。北朝鮮による拉致問題やミサイル発射問題、核開発問題、韓国やロシアとの領土問題、中国との間にある領海侵犯問題や歴史問題、あるいはアジア各国の利害関係の対立と協調等我々が知らなければならない問題は多数あります。相手の国は独自の個性を持った異質な国との認識を持ち、交渉や問題解決に当たる必要があります。そのためには国際的な情勢を整理することの大切さはJCでの国際交流でも世界の中の日本を考える上でも決して疎かには出来ない問題です。経済的な価値観での足し算だけではなく外交問題での引き算も踏まえて、日本や地域の将来像を模索することが必要です。
そしてこの緊迫した国際情勢の中で、綱領にあるように「国際的な責任を自覚」しなければならないなかで、我々が姉妹JC活動をする意義はなんでしょうか。一言で言うとそれは「民間外交」だと思います。今を、次代を、担う青年世代が過去のしがらみを認識しつつも新しい国際関係の構築に向けて取り組む。その基盤となる友情とそれに基づいた相手への興味の醸成。それらが青年会議所に求められている国際的な課題だと思います。世界中でLOMが姉妹締結をしているのは、そしてこの制度が存続しているのは三信条の一つである「世界との友情」の具現化のために他なりません。時としてこの友情は数値で効果を表せないので経済至上主義的な考えの中では価値を見出せないかもしれません。また、本来の国際交流の成り立ちや価値を正面から解きほぐさなければ「事業のための事業」にしか見えないでしょう。しかし、この本来の国際交流の価値を見出すことこそ重要ではないでしょうか。汝矣島JCとも板橋JCとも、もともとある姉妹締結の意義を再度見出すことは可能だと信じています。この「世界との友情」という永続的な価値観を培うことが大切なことなのです。
情勢を知り、現実を直視すること、そのための情報の大切さは国際問題だけに限りません。マスメディアをはじめとする情報の発信には必ず発信者の意図があります。マニフェスト方選挙が進んでいる現在、その政策を判断するために自分で考える成熟した市民となることが求められていますが、考えの元となる情報を得る段階でこの情報発信者の意図を含む情報のあり方に対し無防備でいては真の意味での国民主権社会の実現とは成り得ません。それらの考察は、市民意識変革運動の担い手である我々JAYCEEに有益であり行わなければならないものなのです。獲得するだけではなく、我々の活動や印象も情報として社会に発信されています。その中には我々が思っているとおりに理解されていることもあるでしょうし、そうではない形で発信されていることもあると思います。事業に関しては理解を得られる形で発信しながらも、誤解されることを恐れずに信念に基づき行動することが必要であると思います。我々の運動は市民に対し賛同を得ていくメリットが高いと考えます。運動に共感した人がJCへの入会や協力の提供となると考えます。活動を体験してもらうことが理解を得ていくのに有効ですが、体験を促すことも必要です。昨今活動を市民に理解してもらう様々な試みが為されていますが今年もより充実させ活動していきます。活動が多岐に、そして深くなればなるほど我々の間の情報共有がますます重要になります。ホームページや携帯電話・紙媒体等、特性を活かしながら共有化に努めていきます。JCとしての声を伝えるために、社会問題等に対し意見を集約しながら対外的に発信
していきたいと思います。そして次代へも活動が明確に伝わるように2006年に答申を得たアーカイブ化を進めていくと同時に諸先輩方と交流をもち温故知新を図ります。
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE.
個の力を高め、公共性を形成し、未来を見据え、情報の活発な受発信をする、これらの活動の根底には「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という気持ちが無ければなりません。我々は自分一人のために活動するのではなく一人ひとりが皆のために活動し、皆が時には一人を支える。個人主義ではない、全体主義でもないバランスの取れた有機体として組織だって活動することが大事です。そのためには地域的な課題だけではなく、「社会的、国家的、国際的な責任を自覚」し、活動していくことが必要です。その課題は先に挙げた通りですが、火急の課題に対しては必要に応じて取り組んでいくことも求められています。周到な準備の後には失敗を恐れずに進みましょう。我々は無謬主義に陥ってはなりません。可謬主義でなければなりません。自分たちの活動を否定できない、というのが無謬主義です。可謬主義は、我々の行うことも正しいとは限らず中には変革をしていかなければならないものもあると認めることです。我々JCが青年らしい真っ直ぐな未来を見据えた活動を行うことで政治家や官僚や市民に「よくぞJCが言ってくれた、よくぞやってくれた」そんな評価を得られるような活動をしていかなければならないのではないでしょうか。
JCと行政との関係はどうあるべきでしょうか。行政と良好な関係を構築することは良いことですが、我々は行政の下請けではありません。行政が提案するものを無闇に否定する必要もありませんが、行政の考えたものをJCが賛成するのではなく、我々JCが行政や市民に対して提案を発信する、発信力を高めていくべきだと考えます。可能な限りJCが主管・主体となる事業の割合を高めていきたいと考えます。新潟JCとしての発信を行う機会である外部団体の役員への就任は取捨選択をしながらも積極的に活用していく所存です。
青年会議所と他の団体との最大の違いは40歳までの年齢制限と単年度制です。毎年毎年その年のメンバーが英知と勇気と情熱を持って自分たちで考えるからこそ自信を持って行動できるのではないでしょうか。JC宣言や綱領、そして定款に定められる本会議所の目的はもっとも最も上位に来るべき活動規範でありその内容の輝きは全く色あせておりません。この大きな活動指針を遵守し大切にしながら、行政との領分の違い、単年度制の利点を発揮するべきだと考えます。その流れを今一度各年度の創意工夫を発揮できるように戻すべく活動してまいります。
我々新潟青年会議所は孤立した組織ではなく、全国700余の各地会員会議所(LOM)・約4万名の同志を持ち、国家青年会議所そして国際青年会議所(JCI)と有機的な連携が可能な組織です。我々の活動も他LOMの事業を参考にし、日本青年会議所をはじめ積極的に出向メンバーを募ります。そして国家青年会議所に対して果たすべき役割を各種大会への参加をはじめ積極的に果たし県都LOMとしての貢献を考えていきたいと思います。
これらの活動がメンバー一人ひとりの、そして市民の付託と信頼に応えることが出来るべく事業を総会での審議を始め、正副理事長会議での協議、理事会での審議、そして財政
面を監督指導する委員会をもとに、組織としての将来像を考察しつつ最大限効果的に事業活動を出来るような仕組みを進化させ運営していきます。
使命感を胸に、個と公と未来の調和を礎に、明るい豊かな社会、すなわち愛と信頼に溢れる誇り高き「新潟」の創造に向かって一年間邁進していきます。
ONE FOR ALL,ALL FOR ONE.
2.事業計画
[1] 公の気概を持った個の力を高め、市民意識変革の効果を高める運動
[2] 市民との協働・新潟の貢献力の育成・新潟の発見により、人とまちに公共性を形成する運動
[3] 持続可能な社会構築のために、環境意識変革と教育問題を通じて未来調和を図る運動
[4] 国際情勢の理解、情報の見極めによる受発信、情報資産の活用により情報力を培う運動
[5] 内部審査と組織的バックアップにより公益社団法人としての適正な活動をサポートする運動